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たんぽぽの詩人 坂本 遼
坂本 遼 ーその人と作品ー
1904年(明治37年) 9月1日 兵庫県加東郡東条町横谷で、父芳太郎、母みつの長男として生まれる。
父芳太郎は教育者で、地元の現東条西・東小学校他に勤務。
龍野中学校時代では三木露風を教えている。
1911年(明治44年) 地元の尋常高等小学校に入学。
1918年(大正7年 ) 県立小野中学校に入学。
将来は画家を志望したが、両親の反対で断念する。
1923年(大正12年) 関西学院文学部英文学科に入学。
同級生に生涯の詩友となる竹中郁がいた。
学院2年の時、『日本詩人』に『お鶴の死と俺』が入選する。
草野心平がこの詩を激賞、自身が主宰する詩誌『銅羅』同人にさそう。
『銅羅』に次々と詩を発表する。
1927年(昭和2年) 同学院を卒業する。
郷里で農業をしながら、詩集『たんぽぽ』と小説集『百姓の話』を上梓する。
ときに遼23歳であった。詩集『たんぽぽ』の序文は草野心平である。
高村光太郎や室生犀星はその土着的な美しさを絶賛した。
1931年(昭和6年) 朝日新聞社大阪本社に入社。ジャーナリストとしての道を歩む。
途中兵役をはさむが、戦後は社会部・学芸部次長・論説委員として活躍。
1948年(昭和23年) 竹中郁らと共に児童詩誌『きりん』の選者として子どもの詩、
作文の指導に打ち込み、精力的に童話も発表した。
また、朝日放送のラジオの子供番組「こどもペンクラブ」の選者もつとめた。
1959年(昭和34年) 刊行の児童文学『きょうも生きて』は、児童福祉文化賞、サンケイ児童出版文化賞を
受賞している。詩人の文学には人間のやさしさ、温かさが底に流れ、いま私たちが
失ってはならないものを照らしている。
同年、朝日新聞社退職。母校関西学院同窓会専務理事・事務局長に就任。
また同学院、甲南大学、神戸女学院各大学の講師となる。詩誌『歴程』の同人。
1970年(昭和45年) 5月27日、脳卒中のため永眠。享年65歳。
毎年、命日に近い5月5日には坂本遼を偲ぶ「たんぽぽ忌」が横谷の詩碑前と生家で
坂本家によって、長い間開催されていた。
生家をつつむこの峠の里は坂本文学の原風景でもある。
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